2019年10月11日

「松原のお富士さん」に登ってきました。(その1)富士塚と富士講、そして扶桑教のつながり。

京王線(上り)に乗っていると、「明大前」駅のちょっと手前に…
こんな看板が見えることに、数か月前に私は気づきました。

IMG_8137_1.JPG

「松原のお富士山」「江戸富士塚 富士山太祠(たいし)」
と書いてあります。
私はこれを見て「ここに富士塚があるんだ!行きたい!」と、思っていました。

「富士塚」とはなにか。
これを説明するには「富士講」の話もしなくてはなりません。


説明がちょっと長くなりますが、お付き合いくださいませ。


富士山は日本書紀の時代から、神の宿る山として信仰の対象となっていましたが…。
江戸時代には、富士山をお参りする登山団体である「富士講」が爆発的なブームとなり、江戸っ子たちは「富士講」の仲間と連れ立って “一生の思い出作り”に日本最高峰を目指したのです。

江戸時代中期には
「江戸八百八町に、八百八講あり、講中八萬人」
と言われるほどで、富士講の数とそれに加入している人がとても多かったことがわかります。

ビルが建ち並び、排ガスなどで空気の透明度も落ちている今は、東京から富士山を拝むのはなかなか難しいことですが…江戸時代には江戸の各所から富士山が見えていたようで、浮世絵からもそれがわかります。
あのありがたい富士山の姿が日常的に見られていたのですから、江戸の町に富士講が流行ったのは、ある意味当然でもあったでしょう。当時流行っていた伊勢詣り、金毘羅詣りとともに、「三大詣り」として江戸の町民の文化として深く根付いていました。

徒歩でしか移動ができなかった当時は「健脚者で天気がいい場合」でも、江戸から冨士山北口(吉田口)まで3日間、そこからから頂上までの往復に2日間、合計8日間の旅となるのです。
富士登山には高額な費用が必要だったので、富士講のメンバーから月々集金して、毎年メンバーの一部を登山させるというシステムの「富士講」が誕生しました。富士登山は厳しい体験でありながらも、物見遊山的な要素もあったようです。

ただ、富士山は当時女人禁制だったので、実際に富士山に行くことができない女性やお年寄りのため、富士山を模した人口の山である「富士塚」が、各所に作られたのです。
富士塚は、富士山の溶岩を作って作られたものも多く、また登る途中に、実際にある施設(神社など)を模したものが配置されていたりします。

上記説明文の主な参考文献→江戸っ子は富士登山に夢中!?「富士講」でつながる江戸時代のコミュニティ

東京にある主な富士塚の案内はこちらにあります。
都内で富士山パワー! 気軽に登れる「富士塚」おすすめ5選


私は今まで、富士塚に行ったことはありませんでした。
いや、正確に言うと、一回だけ行った(登った)ことがあるのですが…それは富士吉田市の「ふじさんミュージアム」の中に作られたものだったのです。

私がふじさんミュージアムに行った話はこちら。→2018年を振り返って&来年の目標(その1)富士山に恋した1年。

富士塚は、富士山大好きな私にとって面白そうな場所ではありましたが、いつか行きたいと思いながらも、わざわざ計画して行こう…とまでは、なかなかならなかったのですが…。

この間、高尾山に登った時に、薬王院の一番上にある「浅間神社」が、富士講をまとめた宗教団体「扶桑教(ふそうきょう)」が建立したものだ…、ということを初めて知ったのですが…
はじめての、単独登山。高尾山に登ってきました。(その3)なんで気付いてなかった?薬王院の中の浅間神社!

ブログでそのことを書くために調べているうちに、京王線から見えている看板の
「松原のお富士さん」
があるところが、まさにその「扶桑教」の神社があるところだ、ということがわかったのです。

(※正確に言うと、神社ではなく「教会」と呼ぶのですが…見た目は神社なのですよね)

そして、昨年富士山に登った時に、富士吉田ルートの八合目にあった「元祖室」という山小屋に併設されていた
「天拝宮」と「烏帽子岩神社」
も、この扶桑教の神社であるということを、あらためて思い出しました。ブログにもそのことが書いてありましたよね。
昨年の富士登山の時の話はこちら→富士山、リベンジ!メタボな主人と家族で登山。(その8)主人&娘、本八合目で無念のリタイア。

私がそれぞれ「バラバラに知っていた」ことが…
ついこの間、パズルのピースがはまったかのように、つながりがあることがわかったのです。


となると…俄然、行って見たくなったのです!
扶桑教の神社と、その「松原のお富士さん」へ。



さて、ここでまた、「富士講」「扶桑教」の関係について説明しなければなりません。

そもそも、富士講を始めた「元祖」は、修験道の行者である「長谷川角行」という人です。戦国時代末期に生まれ、江戸時代初期まで生きていました。
角行は富士山の人穴(洞窟)で一千日間の苦行をしたり、富士山登拝をして修行を重ねました。
そしてその角行の後継者たちが、富士講を江戸の町に広げていったのです。

その、江戸をはじめ各地にたくさんあった富士講を、明治時代にまとめたのが「神道扶桑教」なのです。

扶桑教のページには以下のように書いてあります。
明治時代に入り、教祖初代管長 宍野 半が多数に分立していた冨士講を、「冨士一山教会」として統合し、「冨士山・日本」を意味する「扶桑」を教団名として、明治十五年に明治天皇の勅許を賜わり、「神道扶桑教」は教派神道の一派として特立しました。その後、昭和二十七年包括宗教法人の認証を受け、全国に教会・布教所・神事所・講社を設けて活発な活動を行っています。

私もこのことを知ったのは、ごく最近なのですが…
富士山信仰の神社である「浅間神社」と「扶桑教」の関係がいまいちわからず、だいぶ調べました。しかし結論としては、その関係はとても説明しづらいのです。
明治時代以降の日本の宗教の歴史とも関わってくることなので、私もよく理解できていません(笑)

今回は、これを説明するのだけで疲れたので、実際に「松原のお富士さん」に行った話は次回、ということで(笑)

(続く…)

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posted by はなずきん at 10:41 | Comment(0) | 登山よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする