2013年04月07日

父が亡くなりました

長らくご無沙汰しておりました。

今年の3月11日、私の実父が亡くなりました。享年81歳でした。
これから父が亡くなった時のことを書きますので、そういう話が苦手な方はスルーしてください。


昨年の10月頃、父は胃の調子が悪くて医者にかかり、胃がんの疑いがありと言われ、検査をしたところすでに末期のがんだとわかりました。
常に体調管理に気を配り、風邪すらもほとんどひかなかった父。
80を越えていたのに自分が死ぬとは全く考えてもいなかったようです。
ここ20年、健康診断では何もひっかかることもなく、健康状態に絶対の自信があった父はショックを受け錯乱してしまったようです。


それから家族の中で、いろんなことがありました。


父以外の家族は父の治療をできるだけサポートしようとしましたが、父はそれを受け入れられない精神状態になっていました。
母に当たり、子供たちを拒否し、暴言とも言える手紙を子供たちに送り付け、一時は親子の縁を切るしかないのではと思うくらいでした。
家族は余命4か月と聞かされましたが、それを聞いたらなおさらショックを受けるだろうと、父にはそれは言えず…。
しばらく父は、根拠もなく数年は生きるつもりで、ガンによる自然死を迎えるのだと一切の治療を拒否していました。自営業もまだ続けるつもりだったようです。


しかし12月頃には、市販の痛み止めではごまかせなくなるくらい、父の症状は進行していました。次第に悪化する体調から死期が近いのをさとったのか、父はようやく自営業をたたむ決心をしました。
仕事のすべての引き継ぎを終えてから、1月なかばにやっと緩和ケア病棟(ガンそのものに対する治療をせず、痛み止めなどの対症療法のみをするところ)への入院を決めました。


緩和ケア病棟に入ってからの父は、それまでの錯乱状態からはやや解き放たれ、その場所で一生を終えることを覚悟したようでした。
それまで私たちに言っていた、恨み言も口にしなくなりました。
「自分はそろそろあの世に行くんじゃないかと思う」と言いながらも、ときどき揺れ動いて「本当はガンではないのではないか」などと口にすることもありました…。


入院中に父は81歳の誕生日と、金婚式を迎えました。
私と兄ふたりから両親に贈ったお祝いの品に父は喜びました。
病院の電子ピアノで自分が好きだった曲を演奏した父は、家族みんなに囲まれお祝いされる時間を、嬉しいと感じていたようです。

しかし次第に緩和ケアを受けても痛みが治まらなくなってきました。
とはいえ、痛み止めの麻酔薬は効いていたと思われ、精神的に苦しかったのが痛みとして出ていたのではないかと、主治医が言っていました。


入院した頃はアイスやおかゆなどを食べられていた父も、その頃は固形物はほとんど口にできなくなり、何か飲むだけでも戻すようになってきました。
「こんな苦しいのに何が緩和ケアか」と医師に文句を言ったりもしました。
死の一週間くらい前には水分もほとんど入らず、言葉もほとんどしゃべれなくなっていたのですが、私がお見舞いに行くとかき氷を食べたがり、なんとか体を起こして食べていました…。


そして3月11日、東日本大震災から2年経ったその日。
幼稚園の懇談会に出ようとしていた私に、兄から「今日、父の状態が以前とは変わったという連絡が来たので、来れるような準備をしていてほしい」と連絡がありました。
その時点ではまだ、今すぐ駆けつけてほしいという感じではなかったので、懇談会に出席しました。
そういえば、2年前のこの日も、私は幼稚園の懇談会に出ていたのでした…。
そして懇談会の最中に容体が急変したようで、すぐ来てほしいと義姉から連絡が入りました。


とはいっても私の家は、父の入院している病院へ1時間ほどかかる場所です。
泊まる準備をして子供を連れて行かなくてはならず、家を出たのは夕方5時頃になっていました。
そして病院に着いたのが6時過ぎ。母や他の兄弟の家族は全員来ており、私たちが最後の到着でした。


父は苦しそうな息をしていましたが、まだ意識があるようで、話しかけると私が来たことがわかったようでした。
父にはこれまで育ててくれてありがとうと、感謝の言葉を伝えました。
今までお見舞いに来た時にも何度も言おうとして言えなかったことを、その時やっと口にすることができました。


それから30分ほど、父は同じような状態が続いており…
時間が夕ご飯どきになってきたので、子供にご飯を食べさせなくてはと思い、父に「近くのお店に行って、夕ご飯を食べてくるね」と声をかけ、控室にいた子供に出かける準備をさせていたら…
看護師さんが緊張した面持ちで「すぐに全員、病室に来てください」と呼びにきました。


病室には母と、私と兄ふたりの家族が揃いました。
兄が、父が入院中に聞けるようにと持ってきたラジカセから、父が気に入って何度も聞いていた日本の唱歌が流れています。
みんなが父に話しかける中、父の反応はだんだん薄くなっていきます。
もう息をしていない…?と思ったその時、最後に一度だけ大きく喉が動き、父は動かなくなりました。

私は、臨終というものを初めて見たので、ああ、これが死というものなのか…と思いました。
母は涙ぐんでいましたが、私は泣くような気持ちではなく、父がようやく痛みや苦しみから解放されたのだ、と感じました。


父が逝ったのは、私が到着してから40分後くらいのことでした。
父は、私が来るまで待っていてくれたのだと思いました。
家族が全員揃うまでは逝くものかと、必死にがんばっていたのかもしれません。
「食事に行く」なんて言ったものだから、これ以上はがんばれないと思ったのかもね、と後で家族で話していました…。


何かと気難しく、他人とのトラブルをよく起こす父でしたが、自営業をきれいに畳んでいったこと、死の直前までおそらく私たちの言っていることがわかっていたであろうこと、などにもわが親ながらその気丈ぶりには感心しました。


そこの病院では、いわゆる心電図モニターとか、つないでいる機械の類は一切ありませんでした。
死の瞬間には医師は立ち会わず、家族のみで父を見送りました。
家族が呼んで初めて医師がやってきて、死亡を確認してくれました。


家族といえど、遺体というものに対して私はどう感じるのだろう、と思っていましたが、いざ見てみれば「さっきまで生きていた父」であり、触れることにも抵抗はありませんでした。
家族みんなと看護師さんで、父をきれいにしてあげました。
体はやせ衰えていましたが、なぜか足だけはきれいなままで…つやつやとしていました。
その後葬儀まで、何度か会いに行きましたが、やはり父は父であり「遺体」という感じはしませんでした。
とはいえ、だんだん固くなり血の気が引いていった父は、小さい孫達には少し怖かったようです。
触っていいよと言っても、ちょっと気がひけているようでした。


がんとわかってから、父も私たちもずいぶん苦しみました。
私も一時期は父を恨む気持ちでしたが、その時はもうそんな感情はありませんでした。
母と子供とその配偶者、9人の孫達に囲まれて最期を迎えた父は、安らかに逝けたのだと思います。


葬儀の時にもらった遺影を、私の家に飾りました。
生前は何かと口うるさかった父ですが、さすがにもう文句は言わないので(笑)、私は毎日お線香をあげて話しかけています。
そのせいか、以前よりもかえって精神的な距離が近くなったかもしれません。


母が「父はもう私たちに怒っていないような気がする」と言っていました。
私もそんな気がしています。

しかし、3月11日に亡くなるとは。
絶対忘れない、忘れられない命日になりました。


最後に、これを読んだ私の知り合いの方にお願いです。
特におくやみ、お香典等はなさらないでください。
父を直接知っている方もそんなにいないと思いますし…、正直なところ、お返事やお返し等なかなか手が回りませんので、お気持ちだけでけっこうです。
(父の死の話題に触れないでほしい、という意味ではありません)


実のところ、私はほとんどショックは受けていないのです。
ガンとわかってから死までに間がありましたし、父は男性にしては長生きといっていい年齢でしたから、天寿を全うしたと思っています。
どうかお気遣いなく。


しばらくは父の法事や相続関係の手続き、母(健在ですがやはりさびしいようです)の面倒を見るなど、忙しい日が続きますので、日記のほうもまたしばらくお休みさせていただくことになるかと思います。


とりあえず、ご挨拶まで。
posted by はなずきん at 00:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近況 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする